Biography of Dr.Takai

人に歴史あり ―来たれ、IoTモノづくり大好き人間―


保育園時代:

誕生直後、あくび一発。周囲の並々ならぬ期待と不安を察し、第一声!  高井家の長男(北海道分家4代)として昭和35年4月旭川に生まれる。 上半身がひよわなため、「はいはい」はできず。それでも母親の努力の甲斐あって、 健康優良児となる。おしめが取れるのが遅かった割には、何故か子供っぽい服装は大の苦手。 親を手こずらせる。2歳にしてラジオに興味をもつ (三つ子の魂百まで)。

高井家に伝わる系図によれば、宗家高井家は高井三郎菅原重茂(たかい さぶろう しげもち) より起り、源頼朝公家士、後源義経公十八番の家士、高千石を領すとある。 事の真偽は定かではないが、重茂は「我妻鏡」(1180〜1266)に登場する人物である。 相模の三浦和田氏の流れをくむが、「和田氏の乱」(1213)で一人幕府方について奮戦したため、 越後国奥山庄の所領を妻津村尼に安堵され、その子時茂(高井道円)に譲与。 後に時茂の3人の孫が所領の分割譲与を受け、以後庶子家による惣領支配を展開していく。 「丸に酢漿草」を家紋とする高井家は、信州更科村上義清(1501〜1573)に従った後に浪士となり、 元和4年(1618)越後五泉中端郷中野に住居開発。 寛永元年(1624)蒲原郡大関に住居開発し、以後明治維新に至るまで大関村の庄屋を高井家が世襲 (角川日本地名大事典によると、「白川風土記」に同様の記載あり)。 江戸中期には越後桑名御領郡中取締役。 桑名領主(久松松平家)より拝領の掛軸(羽扇綸巾の諸葛孔明像)が北海道分家に伝わる。 古より名字帯刀を許された武家の流れであることは確かである。


小学校時代:

父親や叔父達の影響を受け、小学校入学と同時に半田ごてを握る。最初の夏休みの工作は トランジスタラジオ。無線機、テレビ、オーディオ機器などの電子回路設計と 製作が趣味の典型的な「ラジオ少年」。屋外で遊ぶことよりも、部屋一杯に広げられた 電子部品(ジャンク)の山に囲まれて、独自の回路を設計し、 それを実現するプロセスに食事も忘れて熱中することに何よりの幸福を感じる。 難しい電子工学の専門書でも漢字を飛ばして夢中で読み、NHK第2放送(Eテレ)で 高校の物理や化学の番組を見ることを楽しみとした。 小学校を卒業するころには真空管式のオリジナル白黒テレビや高性能のアマチュア無線受信機 (トリプルスーパーヘテロダイン)を作り、周囲を驚かせた。 将来は「科学者」になりたいと想っていた。

生徒数200人足らずの田舎の小学校では、半ば強制的に学級委員長、児童会会長など 主要中間管理職ポストを歴任。この時ほど担任教師を恨めしく想ったことはない。 組織の雑用にかり出されることが、趣味の時間の減少をもたらしたからである。


中学校時代:

排気量わずか0.1cc足らずの模型エンジン(米Cox社 TeeDee 01)を 搭載した小型模型飛行機とその遠隔操縦システム (1ch, Escapement方式)の設計に没頭。相変わらず既製品や完成品には全く関心を示さず、 細部に渡るまですべて自ら考え、計算し、作り出すことが根本姿勢。送信機の変調トランスは手巻き。 小学校以来の電気に関する知識をベースに、メカトロニクスやエアロダイナミクスの世界に進出。 何から何まですべて手作りの飛行機が、日曜日のグランド上空を自分の意のままに悠然と舞う。 もはやそれは自らの分身に他ならなかった。

補足:このころ3機ほど制作した最後の1機は、現在も書斎の天井に飾ってある。 バルサに絹張り・ドープ仕上げ。35年経っても主翼や胴体のねじれはない。 当時のCox01エンジンやOS製エスケープメントはもうないが、 モーターとプロポを搭載すれば今でも飛ぶだろう。

工学の分野以外に、相対性理論や量子力学など 理論物理の世界にも強い関心をもち、解説書や専門書を次々に読みあさる。アインシュタインや ハイゼンベルグは自らの理想の姿であった。彼らが描き出す遥かな宇宙に思いを馳せて、 虫眼鏡と顕微鏡の接眼レンズを組み合わせて天体望遠鏡を自作するロマンチストでもあった。

中学校でも相変わらずクラス委員長、生徒会役員等を歴任。 「インチョウ」の異名をとる。課外活動では模型クラブに所属。 学校祭では、不良差別・校内暴力をテーマとする演劇にて脚本・主演。 校則緩和や教師の聖職問題、管理教育問題などで学校サイドと激論を交わすこともしばしば。 地区弁論大会にて最優秀賞授賞。


高校時代:

はじめ趣味と直結した工業高校への進学を希望していたが、父親に諭され結局 ありきたりの市内進学校に進む。一転、音楽の世界に興味をもつ。 特にELPなど当時プログレと呼ばれた、様々な音楽ジャンルの融合を試みる進歩派に傾倒。 また日本の電子音楽の草分け的存在である冨田勲氏に憧れ、 2年の歳月をかけてアナログ・ミュージック・シンセサイザーを 独自に開発。木目調のキーボートもすべて手作りであった。小学校以来、正規授業以外の 如何なる習い事・塾等をすべて拒否してきたが、この時ほどピアノでも習っておけばと 後悔(これは後に自動演奏システムの開発の動機となる)。

思想哲学の世界にも興味を抱き、サルトルらの実存主義に傾倒。 決して逃げられない現実存在としての自己に対する厳しい態度に 強い共感を得る。これら音楽と哲学が受験時代を乗り切る精神的な支えを提供していたことは 言うまでもない。高校時代は物理部に所属。学校祭等では生徒会実行委員として 各種イベント企画などで活躍。


大学・大学院時代:

半導体の世界的権威である西澤潤一先生に憧れて杜の都仙台へ。 自作のシンセサイザを下宿に持込み、多重録音を駆使して電子音楽の自己流の作曲や演奏に 興じる。さらに自動演奏のための12bitデジタル制御システムを開発。 ブラックボックスとしての市販マイクロプロセッサに嫌悪感を抱き、 マイクロプログラムレベルからハードウェアを設計。この頃から次第にソフトウェアの 世界にも強い興味を持つ。学部時代はオーディオ研究会に所属。卒論では、 自らの総決算のつもりで持てる設計ノウハウ すべてをそそぎ、超伝導素子のためのCAMシステムを開発。 後にノーベル化学賞を受賞した田中耕一君は同級生(学部の学生実験が同じ班)。

卒業後はF社でVLSI設計でもやるつもりでいたが、たまたま大学院入試を首席で パスしてしまい、卒論担当教授の澤田先生を困惑させる。その後、重井・中村両先生御指導の下、 並列計算機アーキテクチャを主題として博士学位論文をまとめ、 子供の頃からの夢を実現するに至った。

博士論文題目は、"A General-Purpose Pipeline System for the Function-Level Programming Language"。チューリング賞のJ.Backusが提唱した関数型言語FPの 処理系(リダクションマシン)を汎用パイプラインアーキテクチャの並列計算機に実装するものであり、 モトローラMPU68000を使った密結合マルチプロセッサによる評価用プロトタイプも開発した。 今で言えば、ビッグデータのMapReduce処理をパイプラインで実現するようなものである。 130ページにわたる博士論文のドキュメントはIBMの英文ワープロDisplaywriterで作成され、 片面単密(1S)の8インチフロッピーディスク3枚に納められている。 図版やグラフは全てロットリングとステンシルで手描きである。


東大時代から現在まで:

プロの研究者としてのスタートを東京大学で向かえることとなり、青春の仙台を後に。 國井教授の御指導のもと、コンピュータグラフィックスの国際舞台へデビューを果たした。 その後、生まれ故郷へ転勤。北海道大学で教鞭をとる。

また昔のムシが騒ぎだし、自分の原点は10代前半にあることを再認識している。 成長してないオタクということか。あるいはサイバーな日常への反動か。

構想から8ヶ月、調整に手間取ったが、真空管実装のNTSCビデオモニタが ようやく完成(2012.10)。アナログビデオ映像(モノクロ)を写し出すところまで到達した。 水平出力のゲイン不足で、管面上の画像サイズは1インチほどだが、実際にビデオ映像を確認できる。 映像信号増幅、同期分離、垂直同期発信(60Hz)、水平同期発信(15.7KHz)は12AU7を4本で実装。 電磁偏向コイルはオーディオ用5WステレオICアンプでドライブ。ブラウン管の高圧発生部分だけは もとのテレビのフライバック回路をそのまま利用。 「TVの父」と呼ばれる高柳健次郎の映像伝送実験(1926)にならって、 片仮名の「イ」を受像してみた。

部品が入手できるうちにと、ST管仕様の2バンド5球スーパをつくってみた(2013.4)。 使用真空管は 6W-C5, 6D6, 6Z-DH3A, UZ-42, KX-80BK。昭和28年ごろのスタンダードメンバーだ。 マジックアイだけはmT管の6R-E13。IFTは春日無線のTRIO T-6(たぶん昭和30年頃の製造)。 アンテナコイル/局発コイルも同じくTRIOの2B-B (中波帯と短波帯3.5〜10MHzの2バンドを基本カバー、調整で13MHzまで可)。 自分の年齢よりも古い骨董お宝パーツたちだが、いまだ健在の高性能ぶりに驚き。 村田制作所455KHzセラミック振動子で実装したテストオシレータ(BFO)の出力を 6D6のトップグリッドに軽く結合させると、7MHzアマチュア無線のSSBもしっかり復調できる。 ニキシー管NL840の周波数カウンターを6W-C5のカソードにつないで、 受信周波数をデジタル直読。カウンター回路にはあえてPICを使わず、昭和40-50年代風に TTL74LS/CMOS74HCロジックファミリーでフル実装。

短波帯の上の方(14〜21MHz)をどうしても聴きたくなり、単球クリコン を作ってみた。 クリコンとはクリスタルコンバータ、水晶振動子を局部発信回路に用いた周波数変換装置である。 初段の同調コイルは1mm銅線の手巻き、球は3+5極複合管の6U8、水晶振動子は10.000MHz。 つまり、受信周波数を10MHz引き算してくれるわけだ。 これを2バンド5球スーパに接続すれば、14MHz以上の高い周波数帯も安定してカバーできる、 いわゆるコリンズ方式のダブルスーパヘテロダインになる。 14MHzアマチュア無線はもちろん、国際遠距離放送の15Mz帯、17MHz帯を高感度で受信。 寄せては返す潮騒のごときフェージングが懐かしすぎる。 小学生のころの自分に、やっと追いついた。(2014.1) さらに悪のりして、懐かしい定番2SK241/2SC1815で実装したクリコンをさらに1段追加。 21MHz帯のトリプルスーパヘテロダインにグレードアップ。 21MHz => 16.5MHz => 6.5MHz => 455KHz のようにダウンコンバートする。(2014.2)

VOR(Voice of Russia, 旧モスクワ放送)はソチ冬季五輪を最後に終了し、 VOA(Voice of America)のSpecial Englishも2014.6に短波放送終了(泣)。ということで、 さらなる高みを目指し、超短波80MHz帯のFMステレオチューナをmT管でつくってみた。 球は12AT7(仏製ECC81)×2,6BA6×2,6AU6の計5球、日本でFM試験放送が始まった昭和35年頃の標準的なFM高1中2スーパ。 ゲルダイIN60でレシオ検波後、ステレオMPX復調には東芝アナログICのTA7343AP(昭和59年製、製造終了品)を使用。 今や完全に絶滅部品となった10.7MHz真空管用IFTはすべて手巻きで自作。 1m程のアンテナ線でローカル局は問題なくHiFi Stereo受信できる。(2014.12)

管球アンプのラビリンスに踏み込んではいけないとわかっていても、やってしまいました。 3+5極複合管6BM8を使ったステレオアンプ。 回路方式は初段に2SK30Aを使用して定評のある超3結、出力2W+2W。 FMチューナやLPレコードプレイヤーに繋いで、副交感神経の癒しに最適。(2015.6)

昭和30年頃のレトロな真空管式シングルR/Cを1/24スケールの ミニクーパー1300Sに実装(車体は平成10年東京マルイ製)。 構想から10ヶ月を経てようやく完成。 27MHz超再生検波と低周波増幅を米RCA製3A5(直熱双3極管)で。 リレードライブは2SC1815。74HCゲートの有限オートマトンでシングルボタン打ち信号をデコードした後、 タイマーICのNE555でパルス幅変調に変換し、モータとステアリングサーボ(双葉S3001改)を制御。 真空管系に単5×2本を秋月のDC/DCコンバータ2段で30Vに昇圧。 ノイズ対策のため駆動系は単4×4本で別電源。全備重量230グラム。(2016.7)

昭和30年代にポピュラーだった静電偏向ブラウン管2BP1(東芝製)を秋葉で発掘し、 口径50mmの2現象ミニオシロスコープを作ってみた。 倍電圧整流回路でアノード・カソード間の電位差1000Vを実現。 偏向版は米国製高耐圧トランジスタZTX458の差動増幅でドライブする。 帯域幅はオペアンプTL082とアナログスイッチCD74HC4052次第で1MHz程度と思われるが、 1KHzの方形波と微分波を綺麗な緑色で観測できる。 磁気シールドには飲料用スチール缶を4層に重ねて実装。 (2017.5)


前頁に戻る。
This page is maintained by
高井昌彰
Yoshiaki Takai