Biography of Dr.Takai

人に歴史あり


保育園時代:

誕生直後、あくび一発。周囲の並々ならぬ期待と不安を察し、第一声!  高井家の長男(北海道分家4代)として昭和35年4月旭川に生まれる。 上半身がひよわなため、「はいはい」はできず。それでも母親の努力の甲斐あって、 健康優良児となる。おしめが取れるのが遅かった割には、何故か子供っぽい服装は大の苦手。 親を手こずらせる。

高井家に伝わる系図によれば、宗家初代は高井三郎菅原重茂(たかい さぶろう しげもち) なる人物で、源頼朝公家士、後源義経公十八番の家士、高千石を領すとある。 事の真偽は定かではないが、重茂は「我妻鏡」(1180〜1266)に登場する人物である。 三浦和田氏の流れをくむが、「和田氏の乱」(1213)で一人幕府方について奮戦したため、 越後国奥山庄(新潟県胎内市)の所領を妻津村尼に安堵され、その子時茂(高井道円)に譲与。 後に時茂の3人の孫が所領の分割譲与を受け、惣領支配を展開していく。 宗家一族はその後、越後五泉中端郷中野(新潟県五泉市)に移り、以後庄屋役。


小学校時代:

父親や叔父達の影響を受け、小学校入学と同時に半田ごてを握る。最初の夏休みの工作は トランジスタラジオ。無線機、テレビ、オーディオ機器などの電子回路設計と 製作が趣味の典型的な「ラジオ少年」。屋外で遊ぶことよりも、部屋一杯に広げられた 電子部品(ジャンク)の山に囲まれて、独自の回路を設計し、 それを実現するプロセスに食事も忘れて 熱中することに何よりの幸福を感じる。市内のパーツショップ(ミユキ電子)の父母同伴常連。 難しい電子工学の専門書でも漢字を飛ばして夢中で読み、NHK第2放送(教育テレビ)で 高校の物理や化学の番組を見ることを楽しみとした。 小学校を卒業するころには真空管式のオリジナル白黒テレビや高性能のアマチュア無線受信機 (トリプルスーパーヘテロダイン)を作り、周囲を驚かせた。 将来は「科学者」か「雑品屋」になりたいと想っていた (欲しい部品が容易に入手できるから)。

生徒数200人足らずの田舎の小学校では、半ば強制的に学級委員長、児童会会長など 主要中間管理職ポストを歴任。この時ほど担任教師を恨めしく想ったことはない。 組織の雑用にかり出されることが、趣味の時間の減少をもたらしたからである。

当時の愛読書:「模型とラジオ」「初歩のラジオ」「ラジオの製作」「トランジスタ技術」 「CQ」「小学館学習百科事典」「科学」


中学校時代:

排気量わずか0.1cc足らずの模型エンジン(米Cox社 TeeDee 01, 02, 049 等)を 搭載した小型模型飛行機とその遠隔操縦システム (1ch, Escapement方式)の設計に没頭 (超再生式受信機パルサー内蔵の27MHzシングル送信機)。 相変わらず既製品や完成品には全く関心を示さず、 細部に渡るまですべて自ら考え、計算し、作り出すことが根本姿勢。送信機の変調トランスは手巻き。 小学校以来の電気に関する知識をベースに、メカトロニクスやエアロダイナミクスの世界に進出。 何から何まですべて手作りの飛行機が、日曜日のグランド上空を自分の意のままに悠然と舞う。 もはやそれは自らの分身に他ならなかった。

補足:このころ3機ほど制作した最後の1機は、現在も書斎の天井に飾ってある。 バルサに絹張り・ドープ仕上げ。35年経っても主翼や胴体のねじれはない。 当時のCox01エンジンやOS製エスケープメントはもうないが、 モーターとプロポを搭載すれば今でも飛ぶだろう。

工学の分野以外に、相対性理論や量子力学など 理論物理の世界にも強い関心をもち、解説書や専門書を次々に読みあさる。アインシュタインや ハイゼンベルグは自らの理想の姿であった。彼らが描き出す遥かな宇宙に思いを馳せて、 虫眼鏡と顕微鏡の接眼レンズを組み合わせて天体望遠鏡を自作するロマンチストでもあった。

中学校でも相変わらずクラス委員長、生徒会役員等を歴任。 「インチョウ」の異名をとる。課外活動では模型クラブに所属。 学校祭では、不良差別・校内暴力をテーマとする演劇にて脚本・主演。 校則緩和や教師の聖職問題、管理教育問題などで学校サイドと激論を交わすこともしばしば。 地区弁論大会にて最優秀賞授賞。

当時の愛読書:「Uコン技術」「ラジコン技術」「ブルーバックス」「別マ」「りぼん」


高校時代:

はじめ趣味と直結した工業高校への進学を希望していたが、父親に諭され結局 ありきたりの市内進学校に進む。一転、音楽の世界に興味をもつ。 特にELPなど当時プログレと呼ばれた、様々な音楽ジャンルの融合を試みる進歩派に傾倒。 また日本の電子音楽の草分け的存在である冨田勲氏に憧れ、 2年の歳月をかけてアナログ・ミュージック・シンセサイザーを 独自に開発。木目調のキーボートもすべて手作りであった。小学校以来、正規授業以外の 如何なる習い事・塾等をすべて拒否してきたが、この時ほどピアノでも習っておけばと 後悔(これは後に自動演奏システムの開発の動機となる)。

思想哲学の世界にも興味を抱き、サルトルらの実存主義に傾倒。 決して逃げられない現実存在のとしての自己に対する厳しい態度に 強い共感を得る。これら音楽と哲学が受験時代を乗り切る精神的な支えを提供していたことは 言うまでもない。高校時代は物理部に所属。学校祭等では生徒会実行委員として 各種イベント企画などで活躍。STVの明石アナは高校の同期生。

当時の愛読書:「無線と実験」「赤チャート」「シケ単」


大学・大学院時代:

半導体の世界的権威である西澤潤一先生に憧れて杜の都仙台へ。 自作のシンセサイザを下宿に持込み、多重録音を駆使して電子音楽の自己流の作曲や演奏に 興じる。さらに自動演奏のための12bitデジタル制御システムを開発。 ブラックボックスとしての市販マイクロプロセッサに嫌悪感を抱き、 マイクロプログラムレベルからハードウェアを設計。この頃から次第にソフトウェアの 世界にも強い興味を持つ。学部時代はオーディオ研究会に所属。卒論では、 自らの総決算のつもりで持てる設計ノウハウ すべてをそそぎ、超伝導素子のためのCAMシステムを開発。 後にノーベル化学賞を受賞した田中耕一君は同級生(学部の学生実験が同じ班)。

卒業後はF社でVLSI設計でもやるつもりでいたが、たまたま大学院入試を首席で パスしてしまい、卒論担当教授の澤田先生を困惑させる。その後、重井・中村両先生御指導の下、 並列計算機アーキテクチャを主題として博士学位論文をまとめ、 子供の頃からの夢を実現するに至った。

大学院時代の趣味は、スキー、テニスなどアウトドア指向に転換。 これはコンピュータが趣味の対象から仕事の対象に大きく変化したことの当然かつ健全なる 帰結であった。また、RCA奨学金で購入した軽自動車(ミニカ)でのドライブや、 静かに海を眺めることが楽しみのひとつでもあった。

当時の愛読書:「I/O」「RAM」「アスキー」「うる星やつら」「めぞん一刻」


東大時代から現在まで:

プロの研究者としてのスタートを東京大学で向かえることとなり、青春の仙台を後に。 國井教授の御指導のもと、コンピュータグラフィックスの国際舞台へデビューを果たした。 その後、生まれ故郷へ転勤。北海道大学で教鞭をとる。

最近また昔のムシが騒ぎだし、 ラジコンにハマっている (もう更新されてないけど)。 (一応ラジコン歴35年ということになるが、ブランクが20年以上もある!) 自分の原点は10代前半にあることを再認識している。 成長してないオタクということか。

最近作った真空管ラジオは電池管の4球スーパ。 高1中2もいいけど、プラグインコイル仕様の0-V-2(ゼロブイツウ)も捨てがたし。 300Bシングルアンプでじっくり遊びたいのだが。 そうだ、アナログの8インチブラウン管テレビがあるから、これをオシロスコープに改造して...。

愛読書:「ラジコン技術」「おとなの工作読本」「管球王国」


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高井昌彰
Yoshiaki Takai